尼巌山(あまかざりやま)・池田の宮登山ルート解説
国民宿舎・松代荘の裏手まで尾根筋を延ばしているのが尼巌山で、長礼地籍からの
松代温泉R・玉依比売神社からの天王山R(ルート不明瞭)・岩沢地籍からの岩沢R
(奇妙山登山口併用)などがあり、今回は天王山R〜松代温泉R〜山頂〜天王山Rを歩く。 玉比依売神社横の登山口を入ると間もなく石仏(三体)が迎えてくれる。
石碑とお墓がある台地を横切り、バラ線で仕切られた赤松林を抜けると松代温泉Rへの
分岐点だ。
左に折れ平坦な道からガレ場を過ぎた場所に頭が欠けてしまって痛ましい姿の
石仏(四体)があり、ここから6・7分の緩い上りで松代温泉R分岐点だ。
石積みを過ぎると目前に岩壁帯が現れるので、余裕があったら
「←山頂はこっち・岩場はこっち→」の案内板に従って岩壁を楽しむのも良いだろう。
山頂へ行くには岩壁の上部を歩くようになるが、特に危険な場所は無くルート中で
唯一展望を楽しめる場所である。
岩場を過ぎて、いくつかの堀切を登り返すと尼巌山山頂(尼巌城跡)が近い。 山頂には四等三角点が置かれているが、樹木に囲まれて展望は無い。
帰路は天王山Rを選択したが、道が荒れているうえルートも不明瞭なので
ピストンをお薦めする。mikio
尼巌城参考文献・埋もれた古城より抜粋
築城時期は不明だが、この地の土豪である東条氏によって築かれたとされる。
長禄四(1460)年の『諏訪御符礼之古書』には、東条遠江守が英多庄中条を
知行していたと見えるという。
天文二十二(1553)年八月、武田晴信は小県郡の塩田城を攻めるに際し、
大日向氏を通じて東条氏を調略しようとしている。
弘治二(1556)年八月には真田幸隆に書状を送り、尼巌城を早く攻め落とすよう
命じている。
その後東条氏は敗れて越後に逃亡し、八月二十五日には晴信は西条氏に対し、
尼巌城を普請するよう命じている。
弘治三(1557)年七月には長尾景虎が尼巌城を攻撃しようとしたが、
失敗に終わったらしい。
武田信玄は永禄元(1558)年四月には、越後軍が侵攻した場合、小山田昌幸、
真田幸隆らに対し、東条城(尼巌城)在城衆とともにこの城に籠城するよう命じている。
天正十(1582)年八月、上杉景勝が川中島周辺を征圧すると、東条遠江守信広が
城主に復帰するが、慶長三(1598)年上杉景勝の会津移封に同道し、廃城となった。
玉依比売命神社参考文献
玉依比売命(たまよりひめのみこと) 神社は古くから池田の宮と呼ばれ、長い参道の
両側は池沼の跡がうかがえる水田で後ろには天王山を控えその名にふさわしい
ところにある。
児玉石は玉依比売命神の神威によって集まったもので、毎年正月7日の早朝に
玉改めの神事が行われる。
この神事がいつ始まったものかは古来の記録がないので明らかでないが、
明暦年間(1655〜1658)にはすでに60個あまりあり、宝永三年(1706)には292個、
文化七年(1810)には634 個と寄進によってしだいに増加してきた。
昭和43 年には総数786 個だったが、この中には玉以外のものもある。
玉の内訳は、勾玉(まがたま) では硬玉製(104)・瑪瑙(めのう) 製(132)・水晶製(7)
・製(23)鉄石英製(1)・製(182)・蛇紋岩製(4)のほか、原始勾玉(18)・石質不明(10)
・滑石製子持ち勾玉(9)さらに滑石・碧玉・ガラスなどの(37) ・切子玉(5)・丸玉(6)
・小玉(7)・玉(1)・その他碧玉(へきぎょく)滑石(かっせき) 管玉(くだたま)
算盤(そろばん) (20)などで、石器時代の玉類を合わせて591個である。
ほかは自然有孔石や雑物で、これらは指定に含まない。
玉類を多く蔵する神社はほかにもあるが、数が多いうえ内容が豊富な点この神社に
並ぶものがない。
《長野市教育委員会文化財課ホームページより抜粋》 許可番号 18文第246号
コメント
隣接する奇妙山へ尾根づたいに登れる山なので、
奇妙山への下見を兼ねて山仲間の雪入聡太くん(5歳)と尼巌山へ行ってきました。
山全体がコナラに覆われているため、僅かでも展望を楽しみたい方は今が登山適期です。
立ち寄り温泉情報
松代温泉・国民宿舎松代荘 10:00〜21:30 入浴料500円 |